オシえ と カミイツク秀明ヒデアキカイ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
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  昭和22(1947)年2月5日  
  明主メイシュサマ岡田オカダ茂吉モキチ  
 
 
 
     
  私は神と悪魔について説こうと思う  
 
が、
 
 
  これは まことに困難である。  
 
下矢印: ばれなと何
 
  人間は人間であって  
  神でもなければ    
  悪魔でもない    
  からである。  
 
下矢印: らがなしかし
 
  人間には自由がある。
 
  ここでいう自由とは自由主義(のこと)ではない。  
    人間が       しからば何か
コメント:
この当時の時代は、
若者のニューエイジ的な思想として
「自由主義」というものがあったようで、
それは、人生から運命や宿命まで
全てが自由というものでしょう。

ここでは、
そうした流行の「自由主義」と、
明主様がここでおっしゃっる「人間の自由」とは
別であると、念の為にお断り書きされています。
 
 
    1 神にもなり得れば
 
  それは  
    2 悪魔にもなり得る    
  という自由である。  
 
下矢印: でこそ
 
  私は霊界研究から得た  
  神と悪魔なるものについての見解ケンカイ  
  を述べてみよう。  
 
 
人間には、神と悪魔になる自由がある。

では、その 
神や悪魔 とは何でしょうか???
・・・何だか良く分かりませんね。
それにつて、明主様が霊界研究から得た
ご見解を述べてくださいます。

ありがたいことでございますね。
ありがたく、み教えを頂戴致しましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  まず、、、  
(なぜなら)
下矢印: はれそ
 
  の意志 とは何ぞやというに、  
 神の意思=絶対愛と慈悲そのもの
としているのに、
 
私の言う神=正しい神=邪神ではない
としてるので、
絶対愛と慈悲そのものである神に、
正邪の種類は有りえないので、
「邪神ではない」と述べたことに対して、
「変な話であるが」と、註釈をされてます。

 
 
 
 
  絶対愛と慈悲そのもの  
  である。  
  しかしながら  
  私の言う神 とは    
  正しい神 であって、  
  邪神ではない   という事も変な話であるが、  
 
 
  神には邪はなく正そのものが本質 である  
  からである。  
 
  従って  
  ここで(これから)いう邪神                                    
    とは、      
    「本来正しい神でありながら、一時的過誤に陥った」      
   
 邪神 = 一時的過誤に陥った神
としているので、
その、
過誤に陥った神(邪神)と、正神が闘争する
というのは、可笑しな話です。
何故なら、神は全て絶対な愛だから、
神の行為は、良かれと思いやっていることなので、
そうした
良かれと思ってるが間違ってる神「邪神」と、
正神が闘争することは、有り得ません。

明主様は、別項にて、
正神に対峙する悪魔の軍団として
正神に拮抗する存在の、邪神軍があると説いています。
つまり、根っからの悪魔ともいうべき神として、
邪神があると言っています。
この邪神は、元は正神というものではなく、
根っからの悪魔で、
そのように、主神が創ったとおっしゃってます。

なので、この「善と悪」というみ教え中では、
ここでご自身で定義した、
 
邪神 = 一時的過誤に陥った神
というものと、
元々ご自分が認識されている、
 
主神が創った根っからの悪魔 = 邪神
 という、
2つの邪神の意味が、混在してるようで、
  漠然と読むと、意味が分からなくなったりします。

という訳である、
秀明会はどうでしょうか?

「ある期間邪神の虜」???
確かに、旧体制は無くなったようですが、
質的には変わってません。ずっと邪神の虜って一体・・・
下矢印: は下矢印: ちわなす
 
                                                       
 
  なぜ、、、  
  神にして過ちを侵すか  
  というに(ということに回答カイトウしてみると)、  
  正神邪神は常に闘争している。    
  その場合、  
  八百万の といえども  
    最高級の神    
      から      
    最下級の神    
  に到るまでの 階級カイキュウ  
            181 階級カイキュウ  
  とされている。  
  従って、、、  
  二流以下の神 チュウ以下イカぐらいのカミ?)  
 
  往々邪神に負ける。  
 
  ある期間邪神の虜となる  
  のである。  
 
   本居宣長の歌に  
  『八百萬神はあれども心せよ鳥なるもあり虫なるもあり』  
  というのがあるが、  
  その点をよく喝破している。  
 
 
邪神の力が強く」の、この邪神とは、
一時的過誤に陥った神のことではなく、

根っからの悪魔である、邪神のこと
を指していると思えます。
下矢印: は
 
 
 
 
 
  そうして、  
  今日までの夜の世界  
 
 
  邪神の力が強く          
  正神は常に圧迫されがち であった。  
 
  世の乱れは  
  それ がため である、  
 
  そうして  
  昔から 善悪不二、正邪一如 ナドという言葉があるが、  
 
これは
 
 
 
  まったく真理 である。  
  (なぜなら)  
  善悪とは相対的なもの  
 
下矢印: で
 
  善があるから悪があり、  
  悪があるから善がある。  
 
従って
 
 
  善悪は時処位に応じて決めるべき  
  下矢印: で
 
 
 
  例えば、                              
    今日の時代に善であったものが、      
    次の時代には悪になる場合もあり、      
      個人的には人一人殺しても殺人罪になるが、    
      戦争の如く集団的に多数を殺す場合、      
      罪人どころか殊勲者として賞讃さるるのである。  
 
  しかしながら、 善悪ゼンアクは、そのトキ場合バアイによってまる、ややこしいものではあるが)    
  個人にせよ国家的にせよ、    
          一時は栄えても結局は破滅するが、          
    においては 一時的には苦しむが、時が来れば必ず栄える  
    しかも      
    死後の世界の実相を知るにおいて、      
    善は 永遠の幸福者たり得る      
    のである。                                
 
 
 
 
 
 
 
 
  そうして  
  人間が    
  神になるか、    
  悪魔になるか を容易に知り得る方法がある。  
 
それは
 
 
 
  見えざるものを信ずるか否か である。  
 
ゆえに
推し進めてゆく時、
衷心からの善人ではなく、
信用を保たんがための打算的で、
暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、
人間は

唯物主義者に真の善人があるよう訳がない
これは、つきつめた結論です。
神が居ないとすれば、人に知れぬなら何をしてもいいので、
 人の見えないところで悪をし、
 人の見ているところで善を装い、
そうした生き方が、この世界では正当であることになります。
だから、唯物主義者(無神論者)に、真の善人がある訳がない。
となります。

ところで、明主様も昔は唯物主義者でした。
では、昔の明主様は、偽装善人だったのでしょうか・・・。
 無神論者でありつつ、性根として善が好きな人。
これが唯物思想時代の明主様です。
それは、どうした信条によるものだったのかは本人に聞いてみないと分かりません。




結局
悪魔にまで堕する
 ここは読み手によって解釈が分かれると思います。

「見えざるものを信ずる人」
とは、
単に「眼に見えないものを信じるかどうか
という意味では無いでしょう。

 −以下、長いうんちくが続きます−
なぜなら、「見えないものを信じる」を漠然と捉えると、
「神様を信じる」という解釈を通りことして、
空気を信じればそれでも、「
見えないものを信じる人」になります。
じゃあ、空気を信じれれば、神を否定してもそれでいいのかっていうと、
 そんな訳はない。
 こうしてつきつめると、「見えないものを信じる」とは、
どうゆうことかと言うと、
単に世間的な、無神論と有神論で 2分化できるものではなく、
 「
見えないものを信じる人」とは、つきつめれば、
 唯物論者と比較して、「
賢い人」ということになります。
つまり、理法に照らせば「唯物論者」とは、誤り以外の何者でもないです。
 もっとぶっちゃけて言えば、
  本当の馬鹿→悪魔にまで堕落
  賢い人 → 神にまで向上(する可能性がある)
 ってことだ。
この、馬鹿と「賢い人」の賢愚の差は、世間的にある職業や肩書きによって
決まるものではなく、
科学者、宗教家、政治家、芸術家、社長、いぱん人、など、
全てに渡って、(比較的に)「賢い人」は
見えないものを信じる」または、その傾向が強い。と言えます。
 では、どうして、「唯物論者」などという人が生じたのか。
これは、自分を偽って生きてきた結果でしょう。
(つまり、人間はもともと見えない神や霊を信じることができるでしょう)
自分を偽る人は、総じてプライドが高く、その割に実力が無い人で、
そうした人は、常に周囲の眼を気にします。その為、
何かの切欠で「唯物思想」が世間的に高級思想になれば、
たちまちその思想を自分のものとして掲げて、
また、「
有神思想」が高級思想になれば、今度はそれを自分の
ものとして掲げる。そうした人に限って、口数が多いもので、
屁理屈のようなことを並べて、さも自分が優れた人であるように装います。
それは、もともとは
実力が無い人が世の中を上手く渡る為の手段
ではありますが、
いつしか、それによる装いが本当の自分などと思い込んでしまったりして、
自分の本当の姿を見失ってしまいます。
すると、、、本当の馬鹿になってしまいます。
つまり、これが唯物論者です。
で、そうした人が社会的上位であれば、自分が偉人であると思い込んで、
社会制度や機構や都市開発等を、唯物論を基にしたもので作りあげ、
環境破壊や自然美の破壊、汚染や公害、などを引き起こし、
法があっても理不尽な内容で、罪の無い賢人を苦しめたりします。

今はもう、唯物論者など居ないと思いますが、かといって
自分を偽って自分を見失った人」が居ないとも言えないので、
結局、唯物論が打破できても危険度には大差ないでしょう。
 社会的論調としての表面が変わっただけで、
  質そのものの向上は無いでしょうから。
 また、人間には、「やむにやまれない情」というものがあるでしょう。
それは、唯物主義者でも持っているでしょう。
その情がある限り、唯物主義者でも悪魔にまで堕することは無いように思えます。
これはつまり、
「神は居ないとしているのに、何故、他人に対する哀憐の情が起きるのか」
ということです。
その回答は、
「神は居ない」ということの神とは、「体外的な神」(キリスト教で言う、主)
になるからでしょう。
 特に日本人は、神に対して、その姿や人格(?)を特に形作ったりしません。
これは、仏教国である日本にとって、神とは人間の内奥にある感性のようなもので、
広大無辺であり融通無碍であるから、形などなく、
その人格(?)の定義も容易ではない。むしろ定義できない。
定義できないが、人間には元々良心がある。
体外的な神が無いからと言って、
その人間の良心まで否定することはにはならない。と思いますが、いかがでしょうか。

とはいえ、唯物思想は間違いなので、唯物論者に対して対応し、つきつめると、
「唯物思想を肯定すると、人間は悪魔になって生きるのが正当になります」
 ってことになるののでしょう。たぶん。
 
  すなわち、  
  見えざるものを信ずる人     神にまで向上             し、  
  その反対者               悪魔にまで堕落する危険がある のである。  
 
  そもそも  
  人間が悪を行わないという事  
     
  見えざるもの、すなわち    
  「神仏が見え御座る」  
  という観念による    
  からで、  
  この世界に見えざるものは何にもないと思う心  
 
  「人に見られない、知られなければいかなる悪事をしても構わない」  
  という観念になる。    
 
 
  この思想                
         
         
                             
  訳である。  
 
 
  シタガって  
  唯物主義者に真の善人があるよう訳がない。  
  (無神思想は、悪魔にまで堕するから)  
  もし  
  唯物主義者にして善人でありとすれば、 それは  
 
 
 
 
 
  いわば 功利的善者 でしかない  
  という事になる。  
 
  読者よ、  
  こういう偽装善人があまりに多い現代社会ではあるまいか。  
 
  この意味において、  
  見えざるもの神様カミサマのこと)を信ずる人こそ真の善人である  
  と断定して 差し支えないのである。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  以上イジョウのように、カミ論者ロンシャに、シン善人ゼンニンである「可能性カノウセイ」がるのだが、)  
  ここに注意すべき事がある  
一、愛がなく
 秀明会には愛はありましたか?
 ありませんね。あったと思えたものは、
 実は、全て、
お金 を得るための打算的でした。
二、利他的観念が乏しい
 手かざしは、一見すると利他的行動に見えますが、
 秀明会の場合、それは、
 これから始まる搾取の第一段階でしかなく、
 利他と見えたものは、
お金 を得るための打算的でした。
三、虚偽、不正を平気で行う
 何十年に渡る贈与税の未申告、献金の着服、
 教団資金の横領、おかげ話捏造、などなど、
 数え切れないくらいありますね。しかも、平気で行ってた。
 で、これらは全て、
お金 目当てのものでした。
 
 
 
それは
 
  オナカミ論者ロンシャではあっても、)  
  正神と邪神との信仰の結果である。  
 
それは
 
 
 
 
  世間往々  
  神仏を熱心に信仰しながらも、  
  家庭のものや他人に行動の面白からざるものがある。  
  1 愛が無く                      
 
 
  2 利他的観念が乏しかったり、または    
  3 虚偽、不正を平気で行う            
  という人がある  
  が、  
  これ等  
  信仰の目標である神仏が邪であるから  
  で、  
  それについてこういう話がある。    
    ここに一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を調べた。  
    ところが胴巻に百円の札束があったので詰問したところ、      
    「この金は○○寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事はできない」  
 
秀明会はどうでしょうか?

献金する為の金は、どうしましたか?
・・・そうですね。
サラ金、自動車の免許取るから、友達の結婚式があるから、
家屋敷売り払って、家賃滞納して、
などなど、
社会経済に生きる人に迷惑をかけて
彼等を踏み台にして、常軌を逸脱して、悪事を働いて、
献金に励まれましたね。

明主様は、そうしたタイプを、
邪宗信者の典型 とおっしゃっています。
つまり、
秀明信者 = 邪宗信者
と明主様がおっしゃっているのです。
秀明会をやってきた人はどうでしたか?
不幸になりましたか?
それとも、幸福になりましたか?

もちろん・・・。不幸になりましたね。
(中には死んだ人もいるようですが)
不幸になった原因は、「邪道に陥った」ことです。
 
  という。      
    これなどは邪宗信者の典型であろう。                              
  従って  
  かような信仰者  
 
    一生懸命信仰しながら  
     
    邪道へ陥り、  
     
    不幸者となる  
  のである。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この4項目を満たすには、
正しい信仰でなければならなく、
その為には、信仰の対象が、
高級なる正神正仏
である必要があります。

つまり、先の4項目を望むならば、
まずは、高級なる正神正仏を、見つけねばならない。
そして、それを信仰する必要がある。
 
 
  故に  
  信仰に熱心であればあるほど  
  1 健康を増し、          
  2 家庭は円満となり、    
  3 家は富み栄え、      
 
 
4 他人から敬愛される  
  というようになるこそ、  
  正しい信仰の結果で、  
  勿論その神は 高級なる正神正仏である。  
 
 
 
 
 
  またこういう事もある。  
すなわち
 
  まったくの至誠を以て 神に仕え、  
  熱烈なる信仰を捧げ 長年月に及ぶも  
    病気、    
    貧困、    
    不幸等    
  絶えず襲いかかり、  
  苦悩の生活から離脱できない  
    ヒトがある  
  が、  
  それに対し  
  道理をつけて   
  善に解釈する。  
 
    「神の試練」  
    「罪障消滅」  
  なる言葉である。  
 
  また  
  何病の場合、  
  宗教家に相談すると、  
  曰く「人間は須らく死生を超越せよ  
  等というのである。  
  しかるに  
  私は思う。  
  右の両者  
  正神であるが、  
  実は  
  二流以下の神  
  絶対の力がない  
  からである。  
 
 正神正仏であっても、
二流以下では、
 苦悩に対して、罪障消滅や神の試練
 病気に対して、死生を超越してないから
などと言って、
信仰で救えない点を
人間の自力に委ねることになります。
恐らく、先の2つの言葉は、
 前者が、2流以下の神(キリスト教系?)
 後者が、2流以下の仏(仏教系?)
の場合でしょう。

秀明会の場合は、
 「浄化作用」「あんたの曇り」
で全てかたずけられてしまいます。
また、教団を訴えると、
 
「あんたが勝手に自分で信じたこと」
と言われます。
 
秀明会の場合、
  
2流以下というよりも、
   
悪魔そのものですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  しからば  
  今日まですべての神は  
  なぜ  
  絶対力を発揮し得なかったか  
 
という点であるが、
これには理由がある。
すなわち
 
 
 
 
 
 
    夜の世界の期間キカンは、                  
    スクいの活動カツドウオコナうのは)      
    月神系の神仏であって、      
    月神系は二流以下の神格であるから、  
    絶対力を発揮し得なかった            
  のである。  
     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 神様を信じる人が、本当の善人である。
しかし、
単に神様を信じると言っても、
邪神に負けている神様ではダメで、
さらに、2流以下でもダメ。
ところが、
今までは、月神系の神しかいないので、
ぜんぶ2流以下であり、
それでは、本当に救われない。

じゃあ、一流の神様 は何なの?
となりますが、
一流の神様は、今まで出たことのない神様で、
それは・・・、伊都能売神 らしいです。
 明主様が言うには。
その神様は、実は、観音様の正体らしいです。
ということで、まずは観音様を信仰してみれば良いとなります。
が、、、、、
 一流神ともなれば、その信仰形態は、
2流とは大いに異なります。特に、秀明会のバカカルトとは比較になりません。
なので、観音信仰を探るにあたっては、秀明会を
華麗にスルー することになり、
まずは、2流神霊の信仰からの脱却としては、
 観音信仰と、2流神霊信仰との、対比をすると、面白いものになると思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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